をさな児のまことこそ君のすべてなれ あまり清く透きとほりたれば これを見るもの皆あしきこころをすてけりは また善きと悪しきとは被(おほ)ふ所なくその前にあらはれたり 君こそは実(げ)にこよなき審判官(さばきのつかさ)なれ 高村光太郎 『智恵子抄』より
他人がキスしているのを見るのが最近の小町の仕事だ。
観察対象は魔法使い二名。片方は人間。片方は人形遣い。同居している魔法使いたちの家に侵入して、睦言の傍らで聞き耳を立て、覗き見ている。
「ふわあ、あ」
思い切りあくびをしたって、相手には気づかれない。女の子同士のべったべたのディープキスを横目に大きくのびをする。
霊感をよほど研ぎ澄まさない限り、気づかれることのない半ば魂だけの存在になって、小町は控えている。
金髪の三つ編みがはらりとソファの上に被さっている。応じるもう一人の表情は見えない。相手の背中をまさぐる手が艶めくばかりだ。人形遣いの繊細な手指。
夕暮れ時、まだ空は明るさを保っている。窓から斜めに差してくる日が少女たちの髪をさらなる金色に染め上げる。
「ん、ちゅ、はむっ……」
当事者たちの吐息は熱い。それを見て、小町はやれやれとため息をつく。
「っとに今日で何回目だあんたら、えーかげんに死なないとシバくぞ、っとにもー」
向こうには聞こえない悪態をつきつつ、視線を逸らす。死神の目で寿命を測定して記録することも任務のうちだとはいえ、そうころころ寿命が変わる訳でもない。ちょっとぐらい目をそらしたってかまやしない。そもそも自分だって好きでデバガメしてるわけじゃない。これも任務だからしょうがない。
特殊任務といえば聞こえは良いけれど、やっていることはろくでもない覗き見だ。これが正義だなんて到底信じられない。
それでもまあ、何でだかは知らないが、こんなことになって、それでもサボらずに此処にいる。自分でも何をやっているのかよく分からない。今日で何度目かになるため息を小町はまたついた。
小町の当番は日の暮れるまで。その後は交代して別の死神に引き継がれる。
およそ一刻の後、一通り今日あったことを報告書にまとめて、映姫の部屋まで行った。
このドアの前に立つと緊張する。いつでもそうだ。敷き述べられた赤絨毯の先にある、堅牢でがっしりとした黒檀の扉。開けられることを拒むように重い。
小町はノブへ手を伸ばす。冷たいその真鍮に指先がすくんで握ることが出来ない。腕をだらりと下げて、ぎゅっとこぶしを握り直す。小さく咳払いをする。
鍵は開いている。ノックは不要だ。知っている。
ノックをせずに部屋へ上がり込むのが、最も忠実な部下に与えられている特権なのだとしても、未だにそれを行使する気持ちになれない。
怖いものは、怖い。
自分の直属の上司を怖がるのが、まともな部下の在り方とも思えないけれど、死神にだって感情は備わっている。何者も恐れることのない閻魔とは違って。
やはり、ノックをしよう。ノックをして、返事が無ければ、不在であってくれさえすれば、こんなに緊張してこの部屋に入らずに済むのだ。さっさと書類だけ置いて外へ出て、屋台か何かで軽く一杯つまんで帰ろう。そうだ、そうしよう。
硬く握ったこぶしで小さくドアを叩いた。
「はい」
返事は程なくして来た。残念、在室のようだ。思わずため息が漏れる。
「あいていますよ。入っていらっしゃい」
鈴の鳴るように心地よい声だけれど、響きはどこか硬質。鈴が硬い金属で出来ているのと同じように。上司の見目麗しい外面と苛烈な内面を現すようで、何とはなしに皮肉な気持ちになる。
「失礼します」
扉を開ける。部屋の中、一番最初に目に飛び込んでくるのはがっしりと鈍重な机だ。黒いつや出しのニスが塗られてまるで鉄みたいに黒光りしている。
その机の付属品みたいにちんまりと、かの上官殿は腰掛けていた。対比するようにその小柄さが目立つ。その人本人よりも机の方が目立つというのが、まるきり本人の人柄よりも役職の方に重きを置かれているような気がして、小町には気にくわなかった。
制服に着られている、と言いたくなるぐらいのこじんまりとした体躯。大きな椅子と大きな机に埋もれたままで、四季映姫は顔を上げた。
「元気がありませんね、小町」
眉根が寄せられるのを見て、また何度目かのため息をつきそうになった。
元気が出るわけが無いのだ。閻魔の中でも一番厳しいとされる四季映姫の所に直接呼びつけられてやっかいごとに巻き込まれているというのは。自業自得だとはいえ、なんとも皮肉なものだ。
「いやまあ、ねえ」
あまりにもまっすぐな目で見てくるから、口答えも皮肉も出ない。へらへらと笑って誤魔化すぐらいしか返し方が思い浮かばなかった。
小町としては気楽にその日その日の仕事を終えて、帰りに一杯幸せな酒が飲めればそれでいい。それだのに新進気鋭の若造上官が何か言いつけて、まんまとそれに巻き込まれている。
なんだかんだ言ったってどうせ思いつきなんだろう、という気持ちはぬぐえない。
改革といえば聞こえはいいけれど、長い間従事してきたやり方を変えられて、部下が喜ぶ筈がない。それぐらいのことは言わなくても分かって欲しいけれど、この生真面目な朴念仁に通じる訳はない。いつだってそういった目論見は適当にやり過ごして上司が飽きるのを待つしかない。気が重いのはどうにも変わりそうもなかった。
気が重くても、さっさと今日の仕事を終わらせるより他ない。
「ま、いいでしょう、あたいのことは。今日の報告書です。
手短にまとめておきましたから、読んでおいてください」
さっさと話を切り上げてしまいたくて、小町は自分から話題を切り出した。
「いえ、報告書を読むより先に貴女からの報告が聞きたいのですが」
やんわりと映姫は言った。その言葉の柔らかさとは裏腹に視線はあくまで鋭い。捉えて逃さないような執拗さがある。
「現場にいた貴女が何を感じ、何を考えたのか、それを貴女の言葉で聞かせて下さい。まとまっていなくても結構です。率直であればあるほど良い」
丁寧な口調。部下の面倒をよく見る上司という評判もうなずける。それでもどこか得体の知れないねちっこさを感じて、小町は僅かに寒気を感じた。
どのような事柄も見逃さない、冴えきった観察眼を自らに向けられることはあまり心地よいものではない。
「……あたいの話なんて聞いても、時間の無駄でしょう」
「そんなことはありえません。これでも私は貴女のことを信用しているのですよ。この計画に貴女を組み入れたことこそ、その証拠ではありませんか」
「買いかぶり過ぎだと思いますがね」
冷笑。こんな顔をしたくはなかった。出来ることなら、こんな計画に巻き込まれたくは無かったのだ。
「大体、閻魔様の裁判ってのはもっと出来が良いモンだと思ってましたがね」
思わず皮肉をもらす。しかしそれは通じないようだった。ひどく生真面目な顔をして映姫は言う。
「ええ。無論そのつもりです。しかし慢心は良くない。どんなシステムでも老朽化はあるものです。常に向上心をもって前に進んでいかなければいけない」
あまりにまっすぐな目つきをして、映姫は小町を見続ける。目をそらさずにはいられないほどだった。
「以前も伝えたかと思いますが、より正しくより公平な審判を下すためのデータ集めが必要なのです」
「データねえ」
「ゼロとイチ、白と黒。死者を裁くためには膨大な情報が必要となります」
善悪の基準は非常に複雑であり、事件の成り立ちから、関係者の生い立ちまで全てが罪の重さに影響する。類似ケースにおける過去の判例にもまたそれらは影響を受ける。
「既に我々が経てきた無数の魂の判例をもってしても未だ裁きが正確だとは言えない。悲しいことにえん罪は無くならないのです」
そう言って本当に悲しそうな顔をするのが、小町には信じられなかった。
そんなこと言ったって、これが仕事なんだろう? 割り切るのが当たり前じゃないか。ちょっとぐらいミスがあって当然。死神も閻魔も意志のある存在。機械じゃない。いつでも同じ結果が出るわけじゃない。
間違いを正当化するわけじゃないけど、いちいちそんなことを気に病んでいたらやってられない。
「そう、端的に言って、我々にはデータが足りない」
と、童顔の上司は結論づけた。
やめてくれよと小町は内心思う。『我々』と勝手に同類扱いされて、共犯者みたいに思われるのはまっぴらだ。単純に引っ張られているだけだというのに。
「故に、私は貴女の力を必要としているのです」
映姫は初めて顔をほころばせた。
怜悧でありながら人間味に溢れた柔らかな笑顔だ。まるっきりいとけない子供のように純粋な笑みで、物語をこいねがう。
「お願いです、小町。貴女の言葉を聞かせて下さい」
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