ただ、深い溝がある。
長く深く、断絶のような。越えることを許さないような。
それは静かにそこにあった。重い重い、境界線。ずっと平行を描いて、どこまで行っても渡る術はない。
雨が降る。ざあざあと、重く。それを遮るように、人影が立ち尽くしている。たった独りで、私と同じように。誰だかは見えない。でも、きっと彼女だと私にはわかった。雨色に染まって、今にも消えそうで。
手を伸ばしたくても、届かない向こう側。声さえも雨音に掻き消されて。だんだんと朧気になって見えなくなる。届かない。必死になれば必死になるほどに、雨粒は残酷に彼女の姿を隠して。近づこうと藻掻けば藻掻くほど、小さな石ころ一つに躓いて擦り傷が増えた。
伝えたいのは、ただのありふれた言葉。たったそれだけなのに、世界はそれを許さない。引き裂くように。
強くなる雨足。聞こえない声でも、彼女に届いて欲しくて吠えた。喉から絞り出すように。
それでもなお、縮まらない距離。
ただ目の前に横たわるのは、闇のように深い溝。
☆
いっそ、好きになんかならなければよかったのに。
それは最近、常に思っていることだった。ついさっき雨が降り出した空を、窓越しに見て溜息を吐く。さっきからいくらページを捲っても、本の中身が頭に入らない。咲夜が入れてくれた紅茶は既に冷え切っている。お茶菓子のクッキーはうまかったから、ずっと前にさっさと食べ終えてしまった。おかわりはない。要求する気も起きない。
少し離れた机を見やる。パチュリーと一つの魔導書を開いて何やら討論しているのは、最早嫌というほど見慣れてしまった顔。私と鏡写しのような金色の髪。蒼い瞳は手元ばかりに集中して、私が見ていることに気付く様子はまるでない。本当に鏡越しの世界のようだ。
嫌になるほどそっくりで、嫌になるほど正反対で。私は人間だし、あいつは妖怪。弾幕はパワーとブレイン。私は和食派だけど、あいつは洋食。些細なことでも、こんなにも違う。けれど言葉に出来ない根っこの部分で、どこか似ていると思ってしまったから。そんな曖昧な思い込みの領域で、いつの間にか惹かれている自分に気付いたのはいつのことだったやら。
好きだから欲しいと思って、もっと知りたいと思って、こうやってついぼんやり眺めてしまうぐらいなのに。近づけば近づくほど、わからなくなってしまうのは何故なんだろう。最初から好かれてるだなんて自惚れはしてなかったけど、最低でも嫌われてはいないと思っていたのに。その小さな自信さえも、最近じゃぐらぐらと揺れている。
そこで諦められたら、どれだけ楽になれたんだろう。手に入らないんじゃないかって少し悟ってきてからも、逆に想いは募るばかりだ。好きすぎて怖くなるぐらいに。けれどいつものあいつの一言で、現実を思い知る。
「貴方は人間だから」
言い訳のように、そう告げて遠ざける。人のこと笑顔で家に招き入れたりする癖に、そうやって決定的に突き放す。鏡面のように引かれた境界線。鏡の向こうには入れない。
近づいていいのか? それとも駄目なのか? 触れてもいい距離感が掴めなくて立ち尽くす。近すぎれば、嫌われてしまう。入ってはいけないところに入れば、痛い思いをする。けれど遠すぎるのは、寒い。あいつは綺麗だから、うっかりぼやぼやしてたら誰かに取られてしまいそうで。それこそ今、パチュリーと仲良く議論しているように。それだけは嫌だった。私の方を向いて欲しいのに、遠くから眺めているだけなのは寂しいと思う。勝手な独占欲だ。
「……雨、降ってきたわね」
ふと、パチュリーが言いだした。やっと討論が終わったようだ。あいつも窓の外を見ている。
今日は私とあいつとパチュリーの三人での、合同魔法研究発表会。知識の交換は互いの益になるだろうと、私たちは定期的にこうやって議論を交わしていた。とは言っても、あいつら生粋の魔法使いの高度な話について行けるワケもなくて。いつも終盤はあいつとパチュリーでの、ただの討論会になっちまっている。
「そうだな。大分前から降り出してたぜ」
「ねえ。あんた、傘は?」
「邪魔になるから持ってない。このくらいの雨なら傘差して飛ぶと、却って飛びにくいからな」
「……どうせそう言うと思ったわ」
溜息を吐いて。いつものような呆れた横顔が目に映る。こちらを向きもしないで、人形と戯れていた。パチュリーは小悪魔に、資料の魔導書の片付けの命令を下している。
「ほら、これ使いなさい。風邪引くでしょう?」
「いらないぜ」
差し出された青い傘を、受け取る気なんてなかった。だってこれを私に渡したら、お前はどうするって言うんだ?
「お前の傘なんだから、お前が使えよ。――アリス」
名前を呼ぶ。そこでようやく、目線が合った。
深い色をした蒼からは、何も読み取れない。読み取れなくなってしまった。まだ昔の方が、アリスの目の色から色んな感情を読み取れていたような気さえする。
好きだって意識さえしなければ、今でもまだ、見えていたんだろうか。恋は盲目とはよく言ったものだ、と自分自身に呆れながらアリスの言葉を待つ。
そして予想通りに、いつもの言葉が浴びせられた。
「魔理沙は人間でしょう。人間は弱いんだから、自分を大事にしなさい。私は少しぐらい大丈夫だから」
線を引く。区切るように、すぅっと。目には見えないけれど、確かにそこにある断絶。いつものように、いつもの顔で。それが呼吸をしているぐらい当たり前のように。
「そういうこと言うなよ。妖怪だって風邪を引くことはあるんだろ? お前こそ自分のこと大事にしろよ」
「それでもよ。あんたの方が風邪を引きやすいのは確かじゃない。ほら、駄々こねてないで」
「うるさいな。それはお前が使えってば。おい、咲夜。傘ぐらいあるだろ? 一本貸してくれ」
「それがつい最近なんだけど、お嬢様と妹様が派手に喧嘩なさってねぇ。暴れた場所が悪くて……」
ああ、そういえば庭先の倉庫が半壊してたな。あの中に傘を保管していたとしたら、良くて骨が残っているぐらいだろうな。どっちにしろ使えるものはないだろう。
「ほら。傘はこれしかないじゃない。大人しく、貴方はこれを差して帰りなさい。私のことは気にしないで」
少なくとも、人間よりは丈夫だから。とアリスは言う。ああ、そうだろうさ。私とお前じゃ、風邪を引く確率はそれこそ桁が違うだろう。けど、効率とか論理とか、私が気にしてるのはそんなんじゃないのに。どっちが風邪を引きやすいだとか、そんなんじゃなくて。
「じゃあ、せめて二人で入って帰ろうぜ。お前が持ってきた傘なのに、持ち主が濡れて帰るだなんて変だろう」
「それじゃあ二人とも濡れるだけでしょう? こんな小さな傘に二人は辛いし、しかも飛んで帰るのよ?」
「それでもだ! そうじゃなきゃ、私は傘に入らないぜ」
強い口調できっぱり言い切ってやる。私も引かない、アリスも引かないじゃ、ずっと変わらない押し問答だ。だったら妥協するしかない。アリスだって馬鹿じゃないから、私がこれ以上引くだなんて思わないだろう。
「……わかったわよ」
溜息一つ。渋々と傘を引っ込めた。人形を手元に寄せて、本と一緒に腕に抱える。そのまま私には背を向けて、パチュリーに別れを告げて、すたすたと歩いていってしまった。すぐに追いかけようと思ったが、何も言わずに帰るのも気まずいから、気怠そうな魔女に一声かける。
「またな、パチュリー」
「ええ。また。……雨宿りはしていかないのね」
「迷惑かけるわけにはいかないからな」
「それよりも。貴方たち、本当にそっくりだわ。素直じゃなくて嘘吐きなところが特に。どっちも臆病なのかしら」
「なんだよそれ。この霧雨魔理沙様を指して、臆病とか笑わせるぜ。腰抜けはあいつだけで充分だ」
手をひらひらさせて、もう聞く気はないという意志を見せる。箒と帽子を鷲づかみにして、行ってしまったアリスの後を早足で追った。走りはしない。走って追いかけたら、なんだか逃げていってしまいそうで。傍にいるためには、こうやって距離を測らなければならないほどに、私とアリスの間は不安定だった。
人付き合いで重要なのは距離感だ。普通は付き合っていくうちに、互いにとって遠すぎず近すぎない、丁度良い距離感は自然に見つかる。互いにとってすとんとはまるような、心地良い距離。けれどアリスとだと、それが全く見えなくて。好きになると、ここまで目が曇ってしまうものなんだろうか。せめて心の距離が測れるものさしがあればいいのにな。あるはずないけどさ。
アリスはすでに玄関先にいた。外をぼんやりと眺めている。ざあざあと雨音だけが、だだっ広い空間に流れて。私の気配を感じて、傘を開く。
「帰りましょうか」
「ああ」
箒にまたがって地面を蹴る。その隣に、ふわふわと漂うようにしてアリスが並ぶ。相合い傘だなんて、そんなくすぐったいものじゃなかった。肩と肩がこんなに離れた相合い傘がどこにあるって言うんだ。本が一冊入るぐらいには、触れ合わない距離。おかげで左半身は随分濡れた。
「おい、もう少し近づけよ」
「これ以上近づいて飛べるわけないでしょう。特に魔理沙は箒に乗っているんだし」
アリスも右半身はずぶ濡れだった。むしろ私より酷く濡れているようだ。よく見たら、傘が私の方に少し傾いている。そんな気遣いなんて、いらないってのに。これはアリスの優しさなのか、それとも妖怪としての人間に対する軽視なのか判断がつかない。どうであれ、指摘すれば返ってくる言葉はどうせ同じだろう。
人間だから、か。確かに私は人間で、アリスは妖怪だろう。だからといって、私たちはそんなにも交わらない存在なんだろうか。こんなにも人と妖の壁は厚く高かったんだろうか。そんなの全部関係無しに、もっと私たちは対等な存在だと思っていたのに。
アリスだって寒いのや冷たいのは嫌だろうから、そんな一方的に弱く見られて庇護なんか受けたくない。そりゃあ誰だって優しくしてもらいたいって思う。けど哀れみの押しつけなら、そんなの欲しくない。そんなちっぽけな理由で蔑ろにするなんて嫌なんだ。
「飛んでるせいだって言うなら、後ろに乗れよ。二人乗りならもっと近づけるだろ?」
箒の後ろを指さす。表情は見ない。見る勇気なんてなかった。いつも思い浮かぶのは、最悪の想像ばかりだから。
「……そうね。じゃあ、お願いするわ」
後ろにかかる重み。少しは縮まった距離。だけど肩は触れ合わないままで、相変わらず半身は雨に濡れた。もどかしい距離感が辛くて、胸がずきずき痛んで。いっそ飛び込めてしまえば、温かいのになと思う。もしくはいっそのこと、離れられれば辛くはなかったのかもしれない。
どうしても諦められなくて繰り返して。いくら叫んで藻掻いてみせても、手繰り寄せられない距離。伸ばした手には何も触れない。こんなにも触れてみたいのに。
それは星に手を伸ばすことに似ていた。見えるのに届かなくて、そのうち雲が隠してしまうのだろう。今日の空模様みたいに。
傘は相変わらず私寄りに傾いていて、アリスが濡れて寒い思いをするのが嫌だったから、箒のスピードを上げる。ぺちぺちと当たる雨粒は、速度を上げれば痛みを増すのは当然で。耳元で鳴り響く風音が、鼓膜を響かせて頭の中まで凍り付かせた。
霧の湖を越えてしばらくすると、やっと森の入り口が見えてくる。木々がざわざわと揺れて、予想以上に雨足が強くなっていることに気がついた。手も大分冷えて、指先の感覚は大分前からなくなっている。
それでもそんな素振りをすれば、アリスにまた何か言われるのはわかっていたから。ただ黙って、箒を持つ手に篭もらない力を込めるのだった。
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