窓から差し込む満月の光が綺麗な夜に、四方をコンクリートで囲まれた灰色の部屋で血に染まった手と空中で止まったままの赤くて丸い血液を眺めていた。

真夏だというのに虫の声ひとつしない。温度のない部屋。肢体を引きちぎられたひとはばらばらになったまま笑っている。でもきっとまたすぐに怒り出すのだ。

この幸せな時間は長くは続かないのだろう。なんでもっと早く気が付かなかったんだろう。なんでもっと早く私は時間を止められることに気づかなかったんだろうと、私は血の臭いのない空気を吸い込みながら乾いた笑い声を上げた。

おかしいわけではなかった。ただ怖かったのかもしれない。時間が動いてしまったら、どんな事になるのかと思ってしまって。

天井まで血で汚してしまったのだ、床だって一面血で汚れてしまいそうなのだ。血は生ぬるいから、きっと掃除にも時間が掛かる。その間私はどんな酷い怒られ方をするのだろうと思うと。怖くて。

「……ふ、ふふ、あはは……」

怖くて。

怖くて。もう、笑うしかなくて。

殺してしまった罪悪感さえ、時間が止めてくれているような気がして、どうすればいいのか分からなくなる。

そんな時分に、不意にべしゃと時間が解けるのだ。

今更やっと、濡れた布を引きちぎったような恐ろしい音がして、空気中にほうり出されたちぎれた腕や足なんかが、時間の止まる直前に広がった下卑た笑い声の中で床に落ちて壁に跳ね返って反響した。

そこにはもう誰も残っていない。

夢かと思った。窓から差し込む月が綺麗だった。

頭を抱えてじっとしていても彼らは動きもしない。

何の音も聞こえない。

もう私に笑いかけたり、いい子だねと撫でてくれることもない。

殴ったりとか、蹴ったりとか、タバコの火を押しつけられたりだとか、そんなことでさえもうないのだ。

がらりと窓を開けて叫ぶ。

「今日はすごく月が綺麗ですよねえええっ――――!」

暗い中に声が響いてゆく。

もう私にもっと丁寧な言葉遣いをしろと言う人も、もっと楽しそうに奉仕しろと言う人もいないのだ。でもそんな私はもう私のままでそれは私の一部となっていて、きっと丁寧な言葉遣いでなくて楽しそうでない私はもしかしたら私でさえ私だと認識することができないかもしれないのだ。

だとしたら。

「そうね、綺麗だわ」

不意に声が聞こえる。

見上げた先に浮かんでいたのは丸い月だった。

その真ん中に少女がいた。

コウモリの羽根が生えた小さい少女。

「あなたはもっと綺麗ね?」

何故ここにいるのかなんて分かるはずもない。

でも。

もしも、大きかった彼らに歪まされた私を、私と認識してくれる人がもしも丸い月に収まってしまうぐらい小さかったら、きっと好きにならないはずがないと。

「私を貰ってくれませんか?」

その時は、そう思わずにはいられなかったのだ。

◆ ◆ ◆

妹様と雪遊びをして指先や身体中が冷えていた。

マフラーも手袋も妹様に貸してしまったのだ。

メイド服には雪の結晶が付いている。つま先など暖炉に当たったぐらいでは暖まりそうにない。

妹様は降り積もった雪を投げたり固めたり埋もれたりと、はしゃいでいたわりに、転んでからひどい落ち込みようで、玄関へ来るまで、えぐえぐとべそをかいていた。

「そんなに泣かなくてもいいじゃないですか。泣いてるフラン様もかわいいですけど」

「だって、だってえ……っ、ゆき、ゆきいたい、つめたい、えぐっ」

泣いている妹様を抱き抱えて髪についた雪を払う。

溶けた雪で皮膚が引っ掻いたみたいに赤くなっていた。

私は妹様を抱き寄せると、皮膚についた雪を払い頭をなでた。

「大丈夫ですよ、いたくないいたくない。私がついてますからね?」

「う、うん、うん、わか、わかったあ、えう」

ポケットからハンカチを取り出し妹様の顔を拭く。

なんだか痛々しい。涙も冷たそうな気がする。水気の取れた目元をなでると、手にほおずりしてきた。

思わず抱きしめたい衝動に駆られて、ちょっと落ち着こうか私。とばかりに踏みとどまる。別に抱きしめてしまってもいいけど、まだ私の服は若干濡れているし、冷たい。

仕方なく、しゃがみこんで雪で赤くなった頬に唇を近づける。息を吹きかけると、妹様は首をすくめた。

「くすぐったいよう……」

「笑ってくれるとお嫁さんになったかいがありますね。うん」

「あう、そ、そだったね……。な、なかないよ! もうなかないよ! 私つよいこだよ!」

「はいはい、ふふふ」

膝に手をついて立ち上がり、玄関の扉を開ける。

幸せなんて長くは続かないと相場が決まっているけれど、きっと妹様は違うって言うんだろうな。

ロビーの中は少し肌寒かった。私の身体が冷えてるだけなのかもしれないけど。

「咲夜、」

挨拶を終えてもお嬢様はついさっきまで怒っていたような顔をしていた。今は落ち着いているようだが、実際はどうだか分からない。夕食の乗ったテーブルをひっくりかえしてから、怒っていたことに気づくような人だから。私がどんなに頑張っても、まだなお不束な下僕なのだろう。

「お風呂でも行ってきたら? 寒いんでしょう?」

言葉とは裏腹に何だか刺のようなものを感じた。

意味的には気遣いに感謝すべきだし、むしろ妹様を先に入れるべきなので、厳密には私が受けていいはずの言葉ではない。

妹様は持ってきたバスタオルにくるまってソファーの上に転がっていた。固まっていた雪が溶けてまた寒くなってしまったらしい。妹様は吸血鬼だし、少し不安だ。

「ええ、ありがとうございます」

私は頭を下げると笑ってロビーのドアを閉めた。その方がいいと思ったからだ。妹様を好きなのなんて、私だけではないのだし。それに、お嬢様と妹様が交わること自体は私は特別なんとも思っていなかったのだし。

一人で浸かる湯船は熱かった。これはサボりなんだろうかと思うが、お嬢様が言ってくれたからいいのだろう。主人という言葉は好きではなかった。ご主人様という言葉はもっと好きではなかった。昔のことを思い出しそうで嫌になる。無視することはできるけど。

証拠に、湯船には昔一人で入っていたのか、それとも相手と入っていたのか、よく思い出せないのだし。

もうさぼってしまおうかと思って、でもまだやることが残っていた。

仕事はいくらでも片付けられるのにここ何年か勤めていて終わったことは一度だってない。

休みなんかいらないが。好きではないのだ。ぼーっとしていると左上の方から黒い何かが私を押し潰し蚕食してくるようで、たまらなく怖くなる。

「たしか北館はまだ掃除してない……」

バスローブのまま廊下を歩いていた。脱衣所に替えの制服はないのだ。元の服は雪で袖を通すのがためらわれるほどに濡れている。時を止めれば寒くない。

雪はすっかりやんでいた。妹様と遊んだ時は魔法の森も見えないほどだったのに。

雪のせいなのか湖には妖精一匹いなかった。氷精でもいそうなものなのに、しんと静まり返っている。門の方を見下ろすと美鈴はきちんと立っていて、森の方を見つめていた。またさぼって眠ったりしていないようだ。

「私もがんばらなきゃ」

部屋に戻り替えの制服に袖を通す。

軽く握り拳を作ってガッツポーズ。勇気なんか出ないけど、やる気にはなるようだった。

掃除。

掃除をすることは結構多い。一日の半分は掃除しているような気がする。気がするじゃなくて多分そうだ。料理は手順通りやってくれれば大抵失敗しないけど、みんなは掃除はほかっておくと絨毯の上に水をまいたり、窓から砂を捨てたり、なんて、無茶苦茶なことを始めるから下手に任せておけなかった。

そうでなくても紅魔館にはアンティーク品なんかがさも日用品のように使われていたりするのだ。下手に壊したりしたらと思うと何となく恐ろしくてならない。

北館。

北館にはあまり入ったことがない。ないというか、ここは少し変わっていて、何故か部屋が汚れないのだ。私がたまに足を踏み入れるとお嬢様が嫌そうな顔をするのもある。北館の中は全体的に白っぽかった。というのも何となく壁全体が薄汚れているような印象を受けるからだ。布で拭いても拭く前と何ら変わりはないので、本当に汚れているわけではないのだが。

一応たまに掃除にくるが、やはり今日も廊下にはほこり一つ落ちていなかった。何年も使ってないはずなのに。少なくとも私が来たときから使っている気配はない。本当は使っているのかもしれないが。

本当は、というのはお嬢様が時々外にでかけたわけでもないのにいなくなるからだ。

あれは初めての満月の日だっただろうか。

お嬢様がどこにもいないので図書館の奥の方でろうそくに火を灯していたパチュリー様を見かけたので、聞いてみた事がある。

「……レミィ? あの子ねえ……言っていいのかしら……」

「聞かせたくない話だったら無理して話してもらわなくても構いませんよ?」

「うーん。まあ、一週間経ったらまたひょっこりあらわれると思うわ。今は……、そうね、思い出に囚われてるのよ」

「思い出、ですか」

「そうそう。……そんなのじゃいけないんだけどね」

パチュリー様はそれきり黙ったまま。よく要領を得ないまま仕事をしていると、本当にレミリアがひょっこり戻ってきたのだ。ただでさえ薄いからだが更にやつれて。

「咲夜、何か食べたい」

お嬢様は長椅子に倒れ込むと目を伏せてそういった。特に何も必要としていない感じ。断食を終えた後みたいだなと少しだけ場違いなことを思ったのを覚えている。

時間を止めて食事を作る間も何があったのか、聞くべきなのか、そんなことを思っていた。

お嬢様の様子だと、それこそ本当に何も聞いてほしくないと言った感じだったし、それに、本当にそんなにも辛い思い出に浸っているのなら、たかが数十年しか生きていない私なんかが五百歳のお嬢様に手助けできることなど何もないような気がして。

だから私は料理を作った。心を込めて掃除をした。服を着替えさせ。髪を梳き。誰に教えられてと言うわけでもなかったけど、それだけはずっと前から心がけていたこと。手を抜くと怒られるから。お仕置きがいやだからと言う時代もあるにはあったが、今の私が幸せならそれはそれでもうどうでもいいことなのではないのだろうか。

でも、と、時々思う。

もしかして、私は間違っているんじゃないのか?

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